元女子バレー日本代表、“闘将”「吉原知子」の現役時代と名言!

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“闘将”と呼ばれた元女子バレー日本代表「吉原知子」を知っていますか?

長年日本代表を牽引し続けた伝説のプレーヤーなんですよ。

そんな彼女の功績をわかりやすく解説します。

 

 

プロフィール

基本情報

本名:吉原知子(よしはら ともこ)

生年月日:1970年2月4日(48歳)

出身地: 北海道雨竜郡

身長:180cm

体重:60kg

選手情報

ポジション:センタープレーヤー

利き手:右

吉原知子が残した記録、功績

吉原知子が残した偉大な功績を紹介します。

歴代の選手の中でも数少ない「世界で通用する選手」として活躍しました。

“闘将”、吉原知子

・オリンピック3回
・世界選手権2回
・ワールドカップ3回

と世界大会の出場歴から見てもわかるように、吉原は10年以上もの長い間全日本チームの中心として奮闘しました。

誰もが認める国内ナンバーワンセンターとして、多彩な攻撃パターンで相手を翻弄し、また守備力にも定評のある攻守のバランスが取れたまさにチームの要でしたよ。

また、最後まで絶対に諦めない姿勢と常に声を出しメンバーを引っ張り、試合中の相手コートを睨みつけるような目はまさに“闘将”。

強烈なリーダーシップでチームを鼓舞し、全日本の精神的支柱となっていましたよ。

日本人女子初のプロ選手

1995年1月、プロ契約を巡り大林素子と共に当時所属していたチーム・日立を解雇されてしまいます。

その後1996年、イタリアプロバレーボールのトップリーグであるセリエA・アンコーナに移籍し、大林素子と共に日本人女子で初のプロ選手となり、同時に海外移籍1号の選手となりました。日本人選手の海外挑戦への道しるべを残したと言えますね。

それからローマに移籍後、すぐにスタメンのポジションを勝ち取りチームの準優勝に大きく貢献しました。

すでにチームに欠かせない存在となっていた吉原にローマは当然チームに残留するよう交渉します。

しかし、その年のアトランタオリンピックに出場するため、ダイエーオレンジアタッカーズに入団し日本バレー界に復帰することとなるのでした。

優勝請負人

吉原知子は現役時代、日本リーグで4つのチームを渡り歩きました。

所属したチームは以下の通りです。

・日立ベルフィーユ

・ダイエーオレンジアタッカーズ

・東洋紡・オーキス

・パイオニアレッドウイングス

なんとこの全てのチームで優勝に貢献したため、彼女は“優勝請負人”とも呼ばれています。

さらに、2015年からJTマーヴェラスの監督に就任。当時チャレンジリーグ(JリーグのJ2のようなもの)で停滞していたチームを見事リーグ優勝に導き、入れ替え戦を勝ち抜いてプレミアリーグ(JリーグのJ1のようなもの)へと昇格させます。

さらにさらに、吉原知子率いるJTマーヴェラスは2017年シーズンにプレミアリーグで準優勝を果たしています。

現役時代“優勝請負人”と呼ばれた彼女が、監督としてチームを優勝に導くまであと一歩ですね。

面白いエピソード

ここからは吉原知子の面白いエピソードと明言を紹介します。

まさに“闘将”呼ばれるに相応しい振る舞いは必見ですよ。

監督に暴言!?

吉原が東洋紡に所属していた当時、チームの監督を務めていたのが後に全日本女子の監督となる柳本晶一でした。

あるとき試合中に監督がコートに向かって大声で指示を出していたところ、コート内の吉原が監督に向かって、「うるさい!」と言い返すという出来事があったんです。

彼女のことなので決して悪気があってした事ではないと思いますが、これには監督も他の選手たちも驚いたでしょうね。

試合後にはきちんと監督に謝罪したそうですよ。

できるからね。

2015年からJTマーヴェラスの監督に就任した吉原ですが、成績の低迷するチームを立て直すために選手に言い続けていたことがあります。

それが、

「できるからね。」

という言葉です。

この言葉で、成績が振るわず自身を無くしていた選手たちは、心のどこかで思っていた「勝てないかも」という気持ちを払拭し見事リーグ昇格を果たします。

選手の気持ちを理解し、言葉で選手の意識を改革する素晴らしい指導者ですね。

まとめ

現役時代は選手としてチームを引っ張ってきた彼女は、現在監督としてチームを鼓舞しています。

日本バレーの新たなリーグ、V.LEAGUE開幕で盛り上がりをみせるバレー界ですが、“闘将”率いるJTマーヴェラスの活躍からも目が離せませんね。