野村克也の現役時代の成績と現在って?息子たちが凄い!名言も紹介!

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名監督として名高い“ノムさん”こと“野村克也”の現役時代を知っている人はあまりいないのではないでしょうか。

王貞治や張本勲の大記録の陰に隠れていますが、彼の成績も凄まじくまさに超人的です。今回はそんなノムさんについてわかりやすく紹介します。

 

 

プロフィール

基本情報

本名:野村克也(のむら かつや)

ニックネーム:ノムさん

生年月日:1935年6月29日(83歳)

出身地:京都府京丹後市

身長:175cm

体重:85kg

選手情報

ポジション:捕手

最高年俸(選手時):2億円

最高年俸(選手兼監督時):5億円

最高年俸(監督時):2億円

選手期間:1954-1980

経歴(括弧内はチーム在籍年度)

京都府立峰山高等学校

南海ホークス (1954 - 1977) 現ソフトバンクホークス

ロッテオリオンズ (1978) 現千葉ロッテマリーンズ

西武ライオンズ (1979 - 1980)

 

奥さんは野村沙知代で、お互いに二回目の結婚です。沙知代との子供である野村克則と沙知代の連れ子である団野村、ケニー野村の3人ともが元プロ野球選手という野球一族ですよ。

野村克也が残した記録、功績

名監督として有名な野村ですが、現役時代の活躍は凄まじいものでしたよ。

あまり知られていない野村の凄さを紹介していきます。

戦後初の三冠王

意外にも高校時代は無名の選手で、チームも初戦を突破するのがやっとという状況でした。高校卒業後に南海の入団テストを受け入団しますが戦力外の候補となるなど厳しい状況が続きます。そして、3年後にレギュラーを掴み取り大選手への道を歩み始めたのです。

相手投手のクセの研究やデータを駆使する『データ野球』で打撃力が格段に向上し、数々の大記録を打ち立てていますよ。

8年連続の本塁打王、当時のシーズン本塁打記録の更新、1965年には強打者にとって最大の栄誉である『三冠王』(1シーズンに首位打者、最多安打、本塁打王の全部を獲得すること)を戦後で初めて達成しました。

ちなみに、キャッチャーとして本塁打を1シーズン50本以上打った選手は世界でも野村克也だけなんですよ。

球界に起こした革命

野村克也は球界に様々な革命を起こしたことを知ってますか?今では当たり前になっている野球の常識の中には、彼が創り上げたものがたくさんありますよ。その一部を紹介します。

・投手の分業制

投手の“先発、中継ぎ、抑え”という役割分担は今でこそ当たり前になっていますが、これは野村が考案したものです。当時は先発した投手が完投するのが当たり前で、エース格の選手は毎日のように先発して完投していました。野村はこの風潮に一石を投じ、現在の『投手分業制』を確立させました。

・クイックモーション

略して『クイック』と呼ばれることが多いこの投法は、投手が投球動作を小さく素早くすることでランナーに盗塁をさせない投球法です。これも盗塁の名手であった『福本豊』の盗塁を阻止するために野村が考案しました。

・ID野球

ID野球とは、監督がチームを構築するときや選手がプレーするときに、経験や勘に頼るのではなく、データを駆使して科学的に進めていくという手段のことです。この言葉は野村がヤクルトの監督だった時に提唱して広まっていきました。

面白いエピソード、名言

ここからは野村克也の面白いエピソードや名言を紹介します。

受け継がれたヘルメット

野村の頭は大きく、当時の日本にはフィットするヘルメットがありませんでした。仕方なくサイズの合わないヘルメットを着用していましたが、日米野球でサンフランシスコ・ジャイアンツと対戦した際「あのヘルメットだったらオレでも入るんじゃね」とひらめきます。

そうして手に入れた黒のヘルメットを南海カラーの緑に塗装し使い始めたのです。チームを移籍する度に塗装を塗り替えながら使用し続け、引退後は西武球団のロッカーに保管されることになりました。

それから5年後、西武に入団したルーキーが、野村と同じ悩みでヘルメットを探していたところ倉庫で見つけたいい感じのヘルメットがあの野村のヘルメットだったのです。

なんとそのルーキーとは、あの『清原和博』だったのです。そして、清原も移籍の度に塗装をし直し引退まで着用し続けました。

月見草

野村の残した成績は超一流で数々のタイトルを獲得していますが、同じ時代に『王貞治』『長嶋茂雄』などのスーパースターがいたせいで、スポットライトを浴びることはあまりありませんでした。

また、通算試合出場記録2位、通算安打記録2位、通算打点記録2位、通算本塁打記録2位と凄まじい記録を残している反面、どれも二番手に留まり非常に残念というか惜しいものになっています。

大記録を打ち立ててもすぐに塗り替えられてしまう、時には悔しい思いをしたでしょうが、こんな名言を残していますよ。

「王や長嶋がいたから自分がここまでこれた。花にも“ヒマワリ”もあればひっそりと咲いている“月見草”だってある」

 

まとめ

選手としての輝かしい成績はもちろん、球界に革命を起こし日本プロ野球を発展させた偉大な選手です。

現在は解説者や評論家として活躍していますが、独特の言い回しと的確な解説は素晴らしいですよ。これからの活躍にも期待したいですね。