沢村栄治を5分で紹介!戦争で死んだ?死因はなに?球速は?    

f:id:otokonobiyo:20180409002750j:plain

あなたは『沢村栄治』を知っていますか?まだ日本が戦争中だった時代に活躍した伝説のピッチャーです。

日本プロ野球史上最高の投手という呼び声も高く、アメリカの強打者とも対等に渡り合い国民に勇気を与えました。

今回は彼がどんな選手だったのか分かりやすく紹介していきますよ。

 

 

 

プロフィール

f:id:otokonobiyo:20180409002750j:plain

基本情報

名前:沢村栄治(さわむらえいじ)

生年月日:1917年2月1日(享年27歳)

出身地:三重県伊勢市

身長:174cm

体重:71kg

選手情報

背番号:17(永久欠番)

ポジション:投手

打席:右投左打

現役:1936年~1943年

 

沢村栄治が残した記録、功績

伝説の投手『沢村栄治』が残した記録とはどんなものだったのでしょうか?

また、今も伝説として語り継がれる“日米親善試合”についても紹介しますよ!

伝説の日米親善試合

沢村栄治を紹介する上で外せない伝説の試合があります。それは、1934年に行われた日米親善試合です。

今でこそ日本の野球は世界でもトップレベルと言われていますが、当時の日本にはプロ野球もなく、野球の本場アメリカとの実力差はとてつもない開きがありました。

 

その証拠に全16試合行われた日米親善試合の結果は、0勝16敗と散々なものでした。

しかし、その中で1試合だけアメリカに冷や汗をかかせ、『沢村栄治』の名を轟かせた試合がありました。

 

当時17歳だった沢村は序盤から絶好調で、途中あの『ベーブ・ルース』を含む2番~5番の強打者から4連続三振を奪い、アメリカの度肝を抜きました。7回にアメリカから意地の本塁打を浴び0対1で敗れましたが、8回1失点の好成績を残しアメリカの監督に「沢村を連れて帰りたい」と言わせる程でした。

 

残っている数少ない映像を解析した大学教授によると、160km/hもの球速が出ていたそうですよ!!

 

沢村栄治賞

日米親善試合の後、日本初のプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(今の読売ジャイアンツ)に参加した沢村は、史上初のノーヒットノーラン達成、史上初のMVP選出など輝かしい成績を残しました。

 

しかし、時代は戦争真っただ中で沢村も兵士として駆り出されることになり、戦場に向かう船で敵国の攻撃に逢い、船は撃沈され無念の死を遂げてしまうのでした。

 

読売ジャイアンツは沢村の功績をたたえて背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定しました。また、沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立され、シーズンの最優秀投手に贈られることになりました。この賞を受賞することは投手として最高の名誉となっています。

 

面白いエピソード

ここからは沢村栄治に関する面白いエピソードを紹介していきます。

日本人メジャーリーガー第1号!?

当時は日本にプロチームが少なかったことから、アメリカに渡り各地で試合を行うということが多いという状態でした。

そんなある日、試合会場の外野席にいた男性が、紙とペンを取り出してサインを求めてきので、沢村は快くサインを書いてあげました。

しかし、その男性の正体はメジャー球団のスカウトであり、沢村がサインした紙は球団のスカウトが用いる選手契約書だったのです。

読売ジャイアンツは契約は無効だと主張し、メジャー移籍は幻となりました。

 

手榴弾の投げすぎで肩を壊した!?

27歳の若さで現役を引退した沢村ですが、この原因には“戦争”という時代背景があったのです。

現役時代、何度も兵隊として駆り出されます。そこで手榴弾の投げすぎで肩を壊してしまったのです。その後は投球フォームを肩に負担の少ない“サイドスロー”に変更しますが、それでも彼の方は悲鳴をあげます。

最後はさらに負担の少ない“アンダースロー”で投手を続けますが、既に肩はボロボロの状態であり、また、左手は銃弾で負傷し病にも侵されてしまっていました。

戦争が日本球界の宝を壊し、偉大な野球人の命を奪ったのでした。

 

まとめ

最強のメジャーリーガー相手と互角の勝負を繰り広げた姿は、当時の日本人にどれほどの勇気と感動を与えたでしょうか。

日本のプロ野球誕生にも携わり、その功績は計り知れません。

偉大な野球人としていつまでも語り継がれるでしょう。